出会いは、新宿東口のロッテリア。「ええ仕事あるで」の一言から始まった。
18歳当時。雑誌編集者や広告制作プロデューサーなどのジャーナリストを目指す人たちが集まる専門学校に通っていた。『路上パフォーマーを取材する』という締切目前の課題を終わらせるため、なんのあてもなく『路上パフォーマー』を探していた。
「雨があがったばかりで路上パフォーマーなんているわけ無いとおもってたら、新宿駅南口の広場でDJがターンテーブル出して、ゴリッゴリのクラブミュージックを流してる人たちがいたんです。世間一般が思う、路上パフォーマーのイメージとはちょっと違うかな~、と思いました。でも、締切間近で、ほかの候補を探せる余裕もなかったので、思い切って声をかけることにしました。フライヤー配りを手伝うという条件付きで取材させてもらうことにしたんですね。
取材が終わると“お前らの取材、ぜんぜんダメ。頑張りたいんやったら、ええ仕事あるで”と持ちかけられて。
ダメって言われた恥ずかしさと、大都会の新宿で聞く関西訛りの「ええ仕事あるで」は、なんとも言えない怖さがありましたねー(笑) で、後日改めて会うことになり、そこに登場したのが当時まだ大学生だった小田垣で・・・」
後日待ち合わせ場所に現れたのは取材した相手ではなく、小田垣さんだったそう。
小田垣さんは、一冊の企画書を坂本さんの前に放り投げて
「この資料に出てくる英語の部分、わかんないだろうから全部意味調べて理解しといて」そう言い残して、足早に立ち去っていったとか。
小田垣さんは、某広告代理店のプロデューサーの元でインターンをしており、任されていたプロジェクトのアシスタントを探していた。そこにタイミングよく現れたのが坂本さんたちだった。
「調べてもよく分かりませんでしたけどね。一緒にいた友人の心に火がついてしまい、それに付き合うかたちで私も関わり始めたんですが、1週間後には私だけになってました。(笑) 小田垣のもとでアシスタントとして活動したのは、このときの出会いから専門学校卒業までのわずか1年間でしたが、ものすごく濃くて刺激的でしたね。この時に出会った大人たちから“働く”ということを叩き込まれて、18歳の私はおかしなところに片足突っ込んでしまったのかも(笑)」
この不思議な出会いから5年後、小田垣さんと坂本さんは再びノヴィータという場所で合流することになる。
ノヴィータに参画する前、耐えきれず逃げ出した21歳の頃。
ノヴィータに入る前に勤めた会社では、商品開発・仕入れ、カタログ制作、原稿作成、タレント撮影・物撮り、商品発送手伝いなど、その会社にある仕事はほぼ全て経験したそうだ。10も20も年上の社員に混ざって、リーダーポジション争いにも参加したという。
「21、22歳くらいだったかな。勝ち気で、ものすごく生意気でしたね~。 ほんと、今でも馬鹿なことをしたと思っているのですが、任されていた仕事で結果が出せなかったことが許せなくて、逃げました。でも当時の自分には重たくて、周りの迷惑なんて考えることもできず、そこから居なくなることしか考えられなかったんです。辞めたいと申し出ましたが、気に病むことはないよと励ましていただいたりしました。その優しさに甘えてしまいそうな自分が怖くなり、辞表を置いて逃げました。翌日には沖縄にいました。 逃げ出した後、本当は沢山の人に支えられていたってことに気づくんですけど。ほんと馬鹿ですね。」
若さゆえか、ひとりで戦っているつもりで折れてしまった。任された仕事に真剣に取り組んでいたからこそ、結果が出せない自分を許せなかったのだろう。
ホームページ制作って興味ある?
そんな折に、数年連絡を取っていなかった小田垣さんから連絡が入る。
知り合いの会社でホームページ運営スタッフを探しているからやってみないか という話だった。
「ホームページの制作とか興味ある? って開口一番に言われたような気がしますね。
その時いただいたお話は条件が合わなかったので、一度はお断りしました。
でも、なんかこの流れを断ち切っちゃいけないなって感じて“小田垣さんと一緒に働きたいです。働かせてください。”って電話しました。
後日、小田垣さんから“本気で働く気があるなら上京してこい”と連絡いただいて、オフィスから徒歩10分の場所に部屋を借りました。でも1ヶ月もしない内に、オフィスが新宿御苑に移転するんですけど。」
示し合わせたかのようなタイミングでノヴィータが創業となり、約5年ぶりに小田垣さんと坂本さんは合流した。
「毎日、とてもハードでした。教えてくれる人はいないから、なんでもゼロから勉強でした。5年くらいは、会社で暮らしてました。」
新人でも関係なく現場に行き役目を全うせよというなんともワイルドな教育方針。叩き上げられ自己研磨を重ねた結果が、今ここにいる坂本さんを作り上げたのだ。
創業から3年たったころ、ノヴィータでは新規採用も加速。ツーカーが通じない丁寧なコミュニケーションが必要になってきていた。坂本さんは誰に言われるわけでもなく、こんな取り組みをしていたという。
「年齢も経歴もスキルもバラバラだったので、一緒に仕事をするにはお互いをよく知り理解することが大切だと思ってチームビルディングみたいなことを勝手にやってました。月1回全社員集めてワークショップを開いたり、自分年表つくるとか、本の回覧とか、誕生日を祝ったり、飲み会もよく行きました。」
自身のスキルアップだけでも相当大変な時期に、ノヴィータ全体のチーム力を向上するため思いついたことは全て試してみたという、なんとも自由でパワフルだ。こうしてがむしゃらに走り続け、気がつけば5年、10年と月日が流れていったのだ。なるほど。
会社が大きくなりはじめ、坂本さんはマネージメントポジションに就くことになる。
深夜のコンビニで出会った一冊の本から再スタート
パワフルでタフ、究極の負けず嫌い。
はっきりと意見を言う一方で、さりげなく周囲を気づかう繊細な人。ひとつひとつ言葉を選びながら、丁寧に取材に答えてくださる様子から、そんな印象を受けた。
「いや、そんなこと全然ないですよ。カッとなったら相手の気持ちを考えず、ズケズケ言って傷つけてしまうことがあります。 20代だったころは相手も遠慮なくぶつかってこれたんですけど、30代に入って部下との年齢も離れはじめると相手が潰れてしまうだけで、何ひとつ良いことないんですよ。会社が大きくなると規律や調和が尊重されるので、私みたいなのは和を乱してしまいますよね。」
プレイヤーとして、上司として、チームとして、組織として。
“真正面から正論をブチかまし、相手を追い込む”のではなく、“自分も周囲も機嫌よく心地よく、協力し合う”方がはるかに高いパフォーマンスが得られる。そう気づいた、と坂本さん。
すごい! そのマインドの変化は、いったいどこから?
「ふふふ。実は数年前、部下とうまくいかなくて悩んでいたとき、コンビニでふと手に取った本に沢山ヒントが書いてあったんです。 確か、『人望が集まる人の考え方』というタイトルだったかなぁ。本のタイトルを目にした時、“ああ、そうか人望か。人望、必要だね”って思ったんですよね。本には、約束を守る、笑顔を心がける、思いやる、などなど。当たり前のことが並んでいました。ひとつひとつ実践していくうちに、以前よりもずっといい空気に包まれやすくなったなと思います。頭でわかっても腹落ちしてないことには抵抗もありました。だから初めは演じることもありましたよ。だけど、続けている内に分かってくるんですよ。 周囲も“いいぞ~その調子だ!”って感じで温かく受け入れてくれる部分が増えてきたりして。ほんと素直じゃないですね(笑)!」
そして坂本さんは、2016年に取締役に就任。
Webソリューション部の部長として、さまざまな案件をとりまとめ、しかるべき部署や人へパスをする役割を担っている。
「そういうと聞こえはいいですけど、なんでも屋です(笑)。お客様からの要望をどう整えて、どう補えば現場がやりやすいか、交通整理するみたいな感じ。最近はもっとお客さん側で物事考えることが多いですね。この商品やサービスを売るにはどうしたらいいか。何がいけないのか、何がいいのかとかを試行錯誤するところから参画することが増えています。こういう仕事を引き受けることができるのも、部下の成長がほんと大きくて、現場を安心して任せることができ始めているから、私は次のステージに行けるんです。」
ここからは誤魔化しの効かない、自分との勝負
創業から15年。ノヴィータは今、第二創世期なのではないかと思う。
「がむしゃらだったこの15年間もそろそろ終わりが見えていて、ここから先は、どうだったら私たちはハッピーでいられるかを真剣に考えていきたいんです。誰かに託すのではなく、自分たちで創っていきたいと思うんです。
“自分たちで”というところがポイントです。誰かに誘導されるのではなく、自分の意思で選んでいきたいし、選んでほしいと思っています。ほんと、ここからは誤魔化しが効かないとおもうし、自分との勝負ですね。ワクワクします。」
坂本さんは常に“自分”を大切にしていることが伺える。そして、周囲にも“自分”というものを大切にしてほしいと真剣に考えている。
坂本さんが歩んできたノヴィータでの15年の中には、どれほどの試行錯誤があったのだろうか。
“ええ仕事あるで”その言葉の通り、このノヴィータを創るという大仕事は、間違いなく「ええ仕事」だ。
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